SELENEがもたらしたもの
国立天文台 松本晃治
1. SELENE測月ミッションの概要
SELENE (SELenological and ENgineering Explorer) は日本の月探査ミッションの名称である. 1998年にその開発が始まったSELENEは, 数回の打ち上げ延期を経て2007年9月14日にH-IIAロケット13号機によって種子島宇宙センターから打ち上げられた. SELENEは主衛星 (かぐや) , リレー衛星 (おきな) , VRAD衛星 (おうな) という3つの宇宙機で構成された (図1) . 主衛星の質量は約3000 kgであるのに対し, リレー衛星・VRAD衛星の質量は約50 kgであり, これらは子衛星とも呼ばれた. SELENEは14ものミッション機器を搭載した, アポロ計画以来の大型月探査ミッションであった. 測地学を月に応用した「測月学」に関連するミッション機器は3つあった. すなわち, レーザ高度計 (LALT) , リレー衛星中継器 (RSAT) , VLBI電波源 (VRAD) である. LALTは主衛星に, RSATはリレー衛星に, VRADはリレー衛星とVRAD衛星の双方に搭載された. SELENEの大きな目標の一つは月のグローバルマッピングであった. そのため, SELENEの軌道傾斜角は約90° (極軌道) に設定されており, 月の自転運動によっておよそ2週間で月面を一周する観測が可能となる. リレー衛星は近月点高度100 km × 遠月点高度2400 kmの楕円軌道, VRAD衛星は100 km × 800 kmの楕円軌道, 主衛星は高度70~130 kmの略円軌道をとった. アポロ計画では12人の人間が月面を歩き, 約380kgのサンプルを持ち帰ったため, 月に関する我々の理解は既にかなり進んでいるとの印象を持つかもしれないが, SELENE以前には月全球にわたる詳細な地形・重力場マップさえ存在していなかった. LALTは月形状 (地形) の観測, RSAT・VRADは月重力場の観測に威力を発揮し, 詳細な全球地形・重力場モデルが構築された. リレー衛星は主に地球重力の影響を受けた自然な軌道進化の後に2009年2月12日に月の裏側に落下し, 主衛星は2009年6月11日に月の表側への制御落下によってその使命を終えた. SELENEの科学成果はhttp://www.kaguya.jaxa.jp/ja/science/result_of_kaguya_j.htm において論文リストとして紹介されているが, ここでは測月学的な観測と成果について簡単に解説する.
2. 地形観測とその成果
LALTの観測原理は, 他の衛星高度計と同様である. すなわち, 主衛星に搭載されたLALTから発射されたレーザパルスが月面上で反射して戻ってくるまでの時間を計測し, 主衛星から月面のレーザ反射点へ伸ばしたベクトル$\boldsymbol{A}$の長さを観測するというものである. 軌道決定により, 月重心を原点とした主衛星の位置ベクトルB ⃗が分かるので, 月重心からレーザ反射点までの距離 (すなわち地形) は$|\boldsymbol{B}+\boldsymbol{A}|$として計算される. SELENEでは$|\boldsymbol{A}|$の誤差は約1 m, $|\boldsymbol{B}|$の誤差は数十mであり, 地形モデルの誤差は主に軌道・姿勢誤差に支配されている. SELENE以前にも, 米国の月探査機Clementineに搭載されたレーザ高度計で月の地形が観測されたが, 軌道離心率の関係から緯度±80度から極側の地形データは取得できず, 有効データ数は約7万にとどまった. これに対し, SELENEのLALTによって約1,000万点の地形観測が行われ, 詳細な全球月地形モデル (図2) が構築された. 月の平均半径が1,737.154 km, 質量中心と形状中心のずれが1.935 kmであることなどが分かった. 地形の振幅スペクトル (図3) を見ると, 地球のスペクトルの形は右下がりの直線に沿っておりアイソスタシーの成立が示唆されるのに対し, 月のスペクトルの形は半波長 $(\lambda/2) ~ 400 km$付近で折れ曲がり, 短波長側で直線より大きな振幅が観測される. リソスフェアの力学的な強さを弱める働きを持つ水などの揮発性物質が月では非常に少ないため, 波長の短い地形が弾性的に固いリソスフェアによって支えられているためと考えられる.
極軌道をとる衛星で観測すると, 特に両極付近で空間的に高い観測密度が実現する. したがって, SELENEによって特に極域地形モデルの質が格段に向上した. 将来の有人活動や揮発性物質の存否の研究にとって, 極域の日照条件は重要である. SELENEの地形モデルはこの日照条件の算出にも寄与し, 一年中太陽光の当たらない永久日陰域を持つクレータが存在すること, 逆に常に陽が当たる永久日照域は存在しないことが明らかになった. 永久日陰域には水が氷の形で保存されている可能性があり, それを人工物の衝突で掘削して観測するNASAのLCROSSというミッションが2009年10月に実施された. LALTデータはLCROSSチームに提供され, アトラスVロケットの胴体を衝突させるクレータの選定に利用された.
3. 重力場観測とその成果
3-1. 4-wayドップラ観測
一般に, 天体の重力場はその天体を周回する人工衛星の軌道を電波等で追跡して調べる. 地上局から射出された電波を人工衛星で折り返して距離とその時間変化率を観測する2-wayレンジ・ドップラ観測が主に用いられる. 月重力場の研究は, 1960年代後半に始まり, 1990年代前半にかけてLunar OrbiterからApolloミッションの人工衛星追跡データを用いて進められた.表側には, mascon (mass concentration) と呼ばれる正の重力異常があることが発見された. その後, ClementineやLunar Prospectorの追跡データを加えた月重力場モデルが開発された. しかし, 自転周期と公転周期が一致 (同期回転) している月の場合, 裏側を飛行する人工衛星を地球から直接追跡することはできないため, 観測の空白域が裏側に残ったままであった. この様な観測の空白域があると, 球面調和展開によって重力ポテンシャルを表す (「GOCEがもたらしたもの」の式(1)参照) 際に空白域近辺で解が不安定になるため, アプリオリ拘束条件が必要であった. また,たとえ拘束条件を課して全球モデルを構築したとしても,観測データの無い月裏側の誤差は必然的に大きかった. 2機の人工衛星を用いてこの状況を打開する方法として, 高高度衛星経由で低高度衛星を追跡するHigh-low satellite-to-satellite tracking (SST)や, 距離の近接する低高度衛星間の追跡を行うLow-low SSTなどが以前から検討されていた. SELENEの重力場ミッションは前者を実現したもので, High satelliteであるリレー衛星がドップラ信号をLow satelliteである主衛星へ中継することによって, 世界で初めて月裏側を飛行する人工衛星のドップラ追跡データを取得した. 回線が4つの経路 (地上局 → リレー衛星 → 主衛星 → リレー衛星 → 地上局) で構成されることから,この観測を4-wayドップラ観測と呼ぶ. なお, Low-low SSTは地球重力場観測ミッションGRACEで開発された技術を月に応用し, SELENEの後にNASAのGRAILミッションとして実現している. 図4に示したフリーエア重力異常図は, 過去の月探査衛星の追跡データにSELENEで新たに取得した追跡データを加えて構築された月重力場モデルSGM100h (球面調和関数の100次まで展開) に基づいている. 裏側では, 衝突盆地の凹みとそれを取り巻くリング地形に対応した負と正の同心円状の重力異常が見られ, 中心部には地形と相関のない正の重力異常が見られることが多い. これらは盆地全体に正の重力異常が卓越する表側のmascon盆地とは異なる特徴であり, SELENEで初めて明らかになったものである.
相対VLBI観測
SELENEでは, 2機の子衛星に搭載された人工電波源を用いた相対VLBI観測も行われた. 通常のVLBI観測では大気や電離層の揺らぎによって精度が劣化する.しかし,これらの影響は,天空上で十分に近い二つの電波源を同時に,もしくは短い時間間隔で交互に観測し,フリンジ位相を比較することによって効果的にキャンセルすることができる.これらの位相の差はそれぞれの位相よりも一桁以上高精度に決定することが可能である.2-wayレンジ・ドップラ観測が視線方向に感度があるのに対し,相対VLBIは視線に直交する方向に感度がある.したがって,3局以上の地上局で構成される観測基線をそれぞれ直交するように選べば,ドップラと相対VLBI観測の組み合わせによって衛星の三次元的追跡が可能となる.地上局として, 国立天文台のVERA4局 (水沢, 小笠原, 入来, 石垣島) が定常的に, ホバート (オーストラリア) , 上海・ウルムチ (中国) , ヴェッツェル (ドイツ) 局が観測キャンペーン中に観測に参加した. リレー衛星・VRAD衛星の軌道決定に相対VLBIデータを加えることにより, 軌道精度が向上することが確かめられた. また, リレー衛星は4-wayドップラ観測の基準中継点であるため, その軌道精度の向上は裏側重力場モデルの精度の向上につながった. 相対VLBIデータを加えて構築された重力場モデルはSGM100iと命名されている.
4. 地下構造の推定
地形と重力場の双方の情報があれば, 地殻とマントルの密度を仮定することによって地下構造を知ることができる. 表面地形による質量の過不足が重力に与える影響を計算し, フリーエア重力異常から差し引いたものをブーゲー重力異常と呼ぶ. ブーゲー重力異常は主に地殻とマントルの境界面 (モホ面) の形状を反映する. すなわち, 地殻に比べて密度の高いマントルが表面に向かってせり上がり地殻が薄くなっている場所では, 周辺より高いブーゲー重力異常が観測される. SELENEデータから計算したブーゲー重力異常 (図5) から分かるように, 図4において裏側で見られた, 盆地の凹みとそれを取り巻くリング地形に対応した負と正の同心円状のフリーエア重力異常は, ブーゲー重力異常には見られない. これは, 盆地の表面地形が, 盆地形成後も弾性的に固いリソスフェアで支えられ続けたことを示唆する. 裏側の盆地の中心部では正のブーゲー重力異常が認められ, モホ面の上昇が示唆される. 月裏側の盆地には, 中心部のフリーエア重力異常の高まりがブーゲー重力異常の高まりと同程度なType I盆地と, 前者が後者より小さいType II盆地の2種類があることが分かった. Type I盆地ではアイソスタシーに向かうモホ面の補償がなくモホ面の起伏が非流動的な下部地殻で支えられ続けてきたこと, Type II盆地では中心部に限ってアイソスタシーに向かうモホ面の補償が起きたことが示唆される. 後者の原因として大規模な断層系の発達による盆地底部の落ち込みが想定されている. また, ブーゲー重力異常から地殻厚さのモデル (図6) も作成され, これはSELENEの分光観測器による鉱物分布の解釈など, 広く月の科学へと応用されている.
5. 月電離層の電波掩蔽観測とその成果
月には電離層が存在するという説があり, その生成メカニズムとして, 地殻から染み出るAr, Ne, Heなどを主成分とする希薄な ($105 cm^{-3}$以下) 大気が太陽紫外線によって光電離される, あるいは鉛直電場で舞い上がった微細なダストに太陽紫外線が入射して光電子が発生する, などが提唱されている. 月周回機が地上局から見て月で掩蔽される際に, 周回機から送信される電波の位相が月電離層の影響で変化する様子を観測すれば電離層の存否を知ることができよう. この手法を用いて, 旧ソ連の月周回機Luna 19とLuna 22による少数の観測に基づき, 昼側の高度10 km上空に密度〜$1000 cm^{-3}$の濃い電離層を検出したと報告する研究があった. SELENEの特徴はこの先行研究よりはるかに多い回数の観測がなされたことであり, 主にVRAD衛星が出すS帯 ($2218.000 MHz$) とX帯 ($8456.125 MHz$) の位相がそろった2周波の電波を用いた300回以上の掩蔽観測が行われた. その結果, Luna 19と22で報告されたような昼側の濃い電離層は存在しないこと, 太陽天頂角が60度以下, 高度30 km以下の領域で密度〜$100 cm^{-3}$の電離層の存在が示唆されることが分かった. ただ, 地球電離層の影響がまだ残っている可能性もあり, 将来ミッションでのさらなる観測が望まれる.